現在の役職
日本維新の会 代表
所属委員会:国家基本政策委員会 憲法審査会
大阪維新の会 副代表
- 堺市ビリヤード協会 会長
- 堺市陸上競技協会 名誉顧問
- 南大阪日本オーストラリア協会・日本ニュージーランド協会 理事
- 大阪府電機商業組合堺支部 顧問
- 全日本不動産政治連盟 顧問
- 大阪宅建政治連盟 友好議員
- 鳳まちづくり協議会 顧問
- 大阪府理容生活衛生同業組合鳳支部 顧問
- 鳳校区自治連合会 相談役
- 鳳南校区自治連合会 相談役
- 福泉上校区自治連合会 顧問
- 榎校区自治連合会 顧問
- 鳳本通商店街振興組合 顧問
- 浜寺商栄会 顧問
- 日本傅剛柔流空手道攻武会 顧問
- 堺社交事業組合 顧問
- 堺登美丘ライオンズクラブ 会員
- 堺高石青年会議所(シニア)会員
昭和40年1月 | 堺市鳳で生まれる。 |
昭和52年3月 | 堺市立鳳南小学校卒業 |
昭和52年4月 | 堺市立浜寺中学校入学 |
昭和55年3月 | 堺市立鳳中学校卒業 |
昭和58年3月 | 大阪府立鳳高校卒業 |
昭和58年4月 | (株)オージーロイヤル入社 |
昭和61年2月 | 参議院議員(当時)中山太郎秘書として、堺事務所で堺市地区及び婦人部を担当 |
平成元年8月 | 外務大臣衆議院議員中山太郎秘書として東京事務所に勤務 |
平成2年11月 | 東京事務所の統括責任者に抜擢される。 |
平成4年2月 | 上智大学社会人コースでもっと自分自身を磨く為、心理学を学ぶ。 |
平成5年10月 | 堺市議会議員補欠選挙にて初当選 |
平成7年4月 | 堺市議会選挙にて2度目の当選 |
平成11年4月 | 堺市議会選挙にて3度目の当選 |
平成15年4月 | 堺市議会選挙にて4度目の当選 |
平成18年5月 | 堺市議会 第76代副議長に就任 |
平成19年4月 | 堺市議会選挙にて5度目の当選 |
平成23年4月 | 堺市議会選挙にて6度目の当選 |
平成23年5月 | 堺市議会 第76代議長に就任 |
平成24年12月 | 衆議院議員選挙にて初当選 |
平成26年12月 | 衆議院議員選挙にて2度目の当選 |
平成29年10月 | 衆議院議員選挙にて3回目の当選 |
令和3年10月 | 衆議院議員選挙にて4回目の当選 |
馬場伸幸は、昭和40年、大阪・堺にて料理人の父と、のちに料亭を営む母とのあいだに
3人姉弟の末っ子として生まれました。
厳しい中にも温かさのある家庭で育ちました。
地元・鳳高校での学生生活は、勉強よりもラグビーに打ち込む毎日。ポジションはフランカー。
チームのために汗をかく、勝利のために仲間のために、というラグビーに魅せられる高校生活でした。
ラグビーに打ち込みすぎて勉強をあまりしておらず。残念ながら大学進学は叶わずに、父と同じ料理人の道へ。
ファミレスチェーンの(現)ロイヤルホストへ入社。皿洗いや掃除に明け暮れる中、2年目には調理師免許を取得。
ファミリーレストランでは仕事の厳しさとサービスの大切さ、業務効率化を学びました。
社会人生活を通して、いつか青年実業家になる!と決めたら即行動。家族に夢を語り出すと、
自然とご縁が繋がり、母の知人の紹介で、中山太郎・元外務大臣の門戸をたたくことに。
中山太郎先生の秘書として、運転手から始めて事務所番、地元陳情対応、東京事務所責任者として約8年間、政治家という仕事を近くで見聞きしながら務めてきました。
堺市議会議員選挙 初出馬時代
政治家秘書として8年間務めてきたある日、「堺市議会の補欠選挙に出なさい」と
中山太郎先生の一言が人生の大きな転機となりました。
堺市議議会にて
新人候補者として地元の仲間の力を借りながら初当選。
平成24年まで6期19年にわたり堺市議を務め、
平成18年から平成19年まで副議長、
平成23年から平成24年まで議長をそれぞれ務めました。
生まれ育った堺市で地元に密着し汗をかき続けてきた19年間は、
今でも政治家の原点として大切な時期でした。
「日本維新の会」の創設者である松井一郎代表とは、平成14年の秋、知人の結婚式で出会いました。
出会った当時は、松井代表は議員になる前だったことをよく覚えています。
平成21年に行われた堺市長選挙においては、お互いに別々の候補者を擁立し戦い合ったこともありました。しかし不思議な縁が続き、良き同志として信頼関係は深まっていきました。
まさに大阪維新が国政に打って出る時に、馬場は国政に鞍替えすることとなり、平成24年の衆院選で初当選しました。
平成24年の衆議院選挙にて、維新は54議席を獲得しますが、さまざまな党との思惑の中で、合流・分裂を繰り返し、国政維新は「人気目当ての寄せ集め」と揶揄される苦しい党運営でした。
橋下/松井にとって悲願だった大阪の統治機構改革が叶わないという結果を受け、維新ブームの終焉と受け止めた国会議員は、1人、また1人と去っていき、最終的には分党などにより、平成29年12月12日時点で衆11名/参3名、計14名という国会議員のみで、再出発を切る事になりました。
平成27年12月には、維新の会は松井代表、馬場幹事長という体制で、日本の地方分権、統治機構改革を推し進めることを決意したことを今でも覚えています。
5年間に亘り今まで合流と分裂を繰り返してきた結果、色んなところから「しょせんは大阪の地域政党」と、冷ややかな目線を送られることが増えていた日本維新の会。
自身は、少しずつ信頼回復の手応えを感じていましたが、それでも平成29年の衆議院選挙では11議席にとどまり、有権者からの評価は厳しいものだった事を鮮明に覚えています。
幹事長として選挙戦略を立てて、「これは」と思う候補者を発掘し、1人でも多くの議員を誕生させることが、自身の使命だったにも関わらず、悔しい結果となりました。
日々厳しい党運営が続く中、馬場自身は変わらず幹事長の役目にまい進しました。
幹事長は党内で起こる事案全てに関わり、土台作りを日々一つずつ丁寧に行うことが仕事。
成果は、少しずつあらわれてきました。
その後、馬場は、幹事長という役職から共同代表という立場となり、直近の参議院選挙では15議席から21議席へ、
また比例で立憲民主党を上回り、日本維新の会は野党最多となる比例票を得ました。
6年近く幹事長を務め、衆院選後に共同代表に就いた中、常に心に留めてきたのは、共に歩んできた松井代表の言葉「政党は目的を達成するための器で、政治家は使い捨てでかまわない」。
ただ、維新の改革を全国に広げるにはまだ道半ば。
これからが、日本維新の会が目指す改革の本番。
これからの10年、新しい日本を創る為に大改革にチャレンジします。