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当時は日毎に増す経済の成長で家庭の中も物質的に良くなっていきました。
しかし、バブル崩壊を境に経済は勿論、精神面での成長の不充分さがありとあらゆる場面で表れてきました。
昭和、平成、令和と新しい時代は進んでいます。
本当にこのままの政治で良いのでしょうか?
時代や暮らしがいくら変わっても改正できない日本国憲法、
言うだけで一向に進まない税と社会保障の一体改革。
コロナ対応で顕著に表れた有事の際に対応できない東京一極集中の状態。
いつも負担を押しつけられるのは、国民の皆様です。
日本維新の会はまずは政治家自身が身を切って本気の改革姿勢を示します。
変わらない政治を変え、新しい時代を創る。
『今こそ日本大改革』
全ての国民が夢や希望を持てる社会の実現のため、今後も国会の場で全力で戦い続けます。
馬場伸幸は、昭和40年、大阪・堺にて料理人の父と、のちに料亭を営む母とのあいだに
3人姉弟の末っ子として生まれました。
厳しい中にも温かさのある家庭で育ちました。
地元・鳳高校での学生生活は、勉強よりもラグビーに打ち込む毎日。ポジションはフランカー。
チームのために汗をかく、勝利のために仲間のために、というラグビーに魅せられる高校生活でした。
ラグビーに打ち込みすぎて勉強をあまりしておらず。残念ながら大学進学は叶わずに、父と同じ料理人の道へ。
ファミレスチェーンの(現)ロイヤルホストへ入社。皿洗いや掃除に明け暮れる中、2年目には調理師免許を取得。
ファミリーレストランでは仕事の厳しさとサービスの大切さ、業務効率化を学びました。
社会人生活を通して、いつか青年実業家になる!と決めたら即行動。家族に夢を語り出すと、
自然とご縁が繋がり、母の知人の紹介で、中山太郎・元外務大臣の門戸をたたくことに。
中山太郎先生の秘書として、運転手から始めて事務所番、地元陳情対応、東京事務所責任者として約8年間、政治家という仕事を近くで見聞きしながら務めてきました。

堺市議会議員選挙 初出馬時代
政治家秘書として8年間務めてきたある日、「堺市議会の補欠選挙に出なさい」と
中山太郎先生の一言が人生の大きな転機となりました。

堺市議議会にて
新人候補者として地元の仲間の力を借りながら初当選。
平成24年まで6期19年にわたり堺市議を務め、
平成18年から平成19年まで副議長、
平成23年から平成24年まで議長をそれぞれ務めました。
生まれ育った堺市で地元に密着し汗をかき続けてきた19年間は、
今でも政治家の原点として大切な時期でした。
「日本維新の会」の創設者である松井一郎代表とは、平成14年の秋、知人の結婚式で出会いました。
出会った当時は、松井代表は議員になる前だったことをよく覚えています。
平成21年に行われた堺市長選挙においては、お互いに別々の候補者を擁立し戦い合ったこともありました。しかし不思議な縁が続き、良き同志として信頼関係は深まっていきました。
まさに大阪維新が国政に打って出る時に、馬場は国政に鞍替えすることとなり、平成24年の衆院選で初当選しました。
平成24年の衆議院選挙にて、維新は54議席を獲得しますが、さまざまな党との思惑の中で、合流・分裂を繰り返し、国政維新は「人気目当ての寄せ集め」と揶揄される苦しい党運営でした。
橋下/松井にとって悲願だった大阪の統治機構改革が叶わないという結果を受け、維新ブームの終焉と受け止めた国会議員は、1人、また1人と去っていき、最終的には分党などにより、平成29年12月12日時点で衆11名/参3名、計14名という国会議員のみで、再出発を切る事になりました。
平成27年12月には、維新の会は松井代表、馬場幹事長という体制で、日本の地方分権、統治機構改革を推し進めることを決意したことを今でも覚えています。
5年間に亘り今まで合流と分裂を繰り返してきた結果、色んなところから「しょせんは大阪の地域政党」と、冷ややかな目線を送られることが増えていた日本維新の会。
自身は、少しずつ信頼回復の手応えを感じていましたが、それでも平成29年の衆議院選挙では11議席にとどまり、有権者からの評価は厳しいものだった事を鮮明に覚えています。
幹事長として選挙戦略を立てて、「これは」と思う候補者を発掘し、1人でも多くの議員を誕生させることが、自身の使命だったにも関わらず、悔しい結果となりました。
日々厳しい党運営が続く中、馬場自身は変わらず幹事長の役目にまい進しました。
幹事長は党内で起こる事案全てに関わり、土台作りを日々一つずつ丁寧に行うことが仕事。
成果は、少しずつあらわれてきました。
その後、馬場は、幹事長という役職から共同代表という立場となり、直近の参議院選挙では15議席から21議席へ、
また比例で立憲民主党を上回り、日本維新の会は野党最多となる比例票を得ました。
6年近く幹事長を務め、衆院選後に共同代表に就いた中、常に心に留めてきたのは、共に歩んできた松井代表の言葉「政党は目的を達成するための器で、政治家は使い捨てでかまわない」。
代表就任後、維新スピリッツを拡げるため、全国47都道府県を巡る「全国キャラバン」を実施し、
地道に支持を訴え続けました。
目標を600議席と掲げ、自身の進退をかけて臨んだ令和5年の統一地方選挙では、469議席から774議席へと大きく飛躍。大阪以外でも和歌山1区補選に勝利し、奈良県知事選でも当選。
さらに13道県で初当選を果たすなど空白地帯にも議席を広げ、全国政党化への大きな一歩となりました。
結党以来最大の山場を迎えた令和6年の衆議院選挙では、大阪で全19選挙区を制する一方、比例票が伸び悩み、44議席から38議席に減らす結果となり、責任を取り代表を辞任しました。
「いかに組織を守り、組織を大きくしていくか」。幹事長就任以来、離合集散や紆余曲折の中でも、その時々でできることに全力で向き合ってきました。
“8番キャッチャー”を自任し、その使命を実践してきた9年間に、後悔はありません。
令和7年10月の連立政権入りに際しては、「維新の理念を見失わないこと」「政権内で埋没しないこと」を執行部に伝え、吉村代表・藤田共同代表を中心とした新体制を支えています。
また、「2025年大阪関西万博を成功させる国会議員連盟」の相談役として万博の成功に尽力。
現在は、代表時代に時間的制約の中で十分に取り組めなかった分野に力を注ぎ、地元では南大阪の発展に向け「南大阪創世首長会議」の立ち上げに関わるなど、地域活性化とふるさと堺の発展に取り組んでいます。
国会では、ライフワークである憲法改正・国民投票の実現や連立合意「12本の矢」の実現に向け、党内外で意見を交わし、維新の改革を一歩ずつ着実に進めています。
連立政権に入ったいま、日本維新の会は改革のアクセル役となって政治を動かしています。
全ては次世代の為に。これからも日本大改革に邁進します。